上杉謙信が愛した刀

謙信は越後守護代の長尾家に生まれ、長尾景虎と名乗る。のち関東管領の上杉家の家督を次いだ景虎は、政虎、輝虎と名を変えた。謙信は法号である。謙信は愛刀家でも蔵刀は数多く残っており、特徴は長大な刀が多い事があげられる。河中島の戦いのときに謙信が武田本陣に突撃し信玄に斬りつけ、このときに使った刀が備前長船長光の作である「小豆長光」とされる。この小豆長光は全く現存していない。しかし上杉家には備前長船長光の銘を持つ刀が現在も複数伝えられており、長光作の刀を愛用していたのは間違いないであろう。

 謙信に子はなく後を継いだのは姉の仙桃院の子、甥にあたる景勝である。景勝はあるとき竹俣兼光の外装を新しく作らせることにした。これは上杉二十五将に数えられる猛将、竹俣三河守朝綱が主君に献上した刀である。刀は見事に補修されて戻ってきた。しかし三河守はこの刀には小さな孔がなく偽物であると見破り、景勝は京に使いを出して本物の兼光を探らせた。はたして本物は見つかったが、この事件は刀好きの秀吉の知るところとなり、兼光は召し上げられてしまった。家康も賞金を懸けて探させたが行方は知れなかったという。

謙信の養子、景勝も愛刀家であった。700振りあったとされる蔵刀の中でも随一の名刀とされたのが山鳥毛一文字である。景勝が御手選三十五腰を定めた書付には「山てうもう」とある。無銘ではあるが鎌倉時代中期の福岡一文字派の作と推定される。「山鳥毛」の号は刃紋の美しさを山鳥の羽毛に喩えたものと言われる。一文字派の作品の中では「日光一文字」「道誉一文字」と並ぶ最高傑作であるとの声が高い。この剣は謙信が1556年に上州に出征した際に武田家に追われた上州白井城の長尾憲景が謙信を頼り献じたとある。また謙信が上杉の名と関東官領毛を受け継いだ際に贈られたものだという説もある。